(写真展のステートメント用に書いた文章の、ロングverです。)
さまざまな事象や規律や構造に関して、よく分かんないな、と思いながら生きている。 行き交う人々が当たり前のように受け入れる、あるいはうまく呑み下していることを目の前にして、立ち尽くすことが多い。その歯切れの悪さは心地の良いものではないから、写真制作をしている。ことばに出来なかったことをどうにか頭から取り出して、「現像」したいのだ。割り切れない事柄を扱うわけだから、いったんフィクション的なピントの曖昧な世界に逃げ込むことにした。サイアノタイプ は、奇麗だ。 最終的には性別/ genderというよりはむしろ女性性/ womanhood /femaleness/ femininityに関する作品群が仕上がった。 はじめは広くジェンダーなるものを扱う作品展にするつもりだったのに、ジェンダーロールが原因で生きづらいというよりは、自分のもつ女性の身体・女性という概念がはらむシグナルに戸惑ってきたと気づいたからだ。 私は女だからといって進学を阻まれたり、給与差別をうけたりしたことはない。セクハラが跋扈する旧式コミュニケーションを頑張らなくても生きていける環境もある。祖母は「あんた、えらいな。ええ時代やな、よう勉強しい、やりたいことやりや。」と言った。その通りだと思う。性を保有する実体として社会を生きるほど、フェミニズムや女子教育について学べば学ぶほど、自分が女性に生まれついたことで被った社会的不平等は少ない。 また、シスジェンダー(身体と性自認が一致しており、異性愛者である)におおまか当てはまるのでLGBTQ+のような葛藤を持って世を生きているわけではない。ただ、メディアが形づくる女性らしいふるまい、社会通念の求める女性らしいコミュニケーションというものにはずっと馴染めない。じゃあ男性らしさを自ら身に付けたいかと言われるとそうでもない。根幹にあったのは、社会的期待と自ら知覚する実存のズレだ。女性の自認と、社会に浮遊する女性の概念イメージが合わない。合わせないと奇異の目で見られる、それが煩わしい。いつのまにか自分が内在化してしまった「虚構の他人の眼」といまだに闘っている。それは過去の経験と感情の蓄積で、現在とはかけ離れたところにあるはずなのに、いつも歩く先から覆いかぶさってくる気がして息が詰まり、痛くて仕方がない。 今回の制作で個人的に生きる女性性について探索した結果、それは美しいものであった。性的なるシグナルは、今まで無意識に忌避していたような悪いものではないよ、と自らに学びを与える時間であった。 今まで撮ってきたスナップと全く違う作風に取り組むのは魂を削るような行為だった。正解はないし、何が自分にとっての正解かもわからない。静物的で輪郭の定まりきらない世界。でも手を動かしながら形と色に浸かることではじめて解ることがそこにはたしかにあった。 今回の制作した作品を眺めてみて、「社会的コミュニケーションでは表出されないけど、内面はめちゃめちゃ女してるんだな」と思った。そのように女を突きつけられたと同時に「これが女か?個体差では?」と実態がつかめないような気もする。 制作をするなかで見つめるものは近眼的な自己だった。私は大枠としてシスジェンダーに当てはまると自認しており、LGBTQのような息苦しさを感じることはない。しかしただ生きづらさを感じることがあれば社会的期待と自ら知覚する実存のズレだと気づいた。今後探索していくとしたらこの部分になってくるだろう。今回の制作で個人的に生きる女性性について探索した結果、それは美しいものであった。性的なるシグナルは、今まで無意識に忌避していたような悪いものではないよ、と自らに学びを与える時間であった。 思えば、ずっと「ことばならざるもの」に圧倒されながら生きてきた気がする。周りの誰しもが当たり前のように使う、感情や感覚や関係性を表すことばをうまく使いこなせなくて、いつも歯切れの悪い思いをしてきた。私たちの生きる現実はそれぞれに違い、同じことばでわかりあうにはあまりにも複雑すぎるように思い、何もうまく言い表せないようなきがして、話そうと試みる前から口をつぐんでしまう。 それから、いつのまにか自分が内在化してしまった「虚構の他人の眼」といまだに闘っている。それは過去の経験と感情の蓄積で、現在とはかけ離れたところにあるはずなのに、いつも歩く先から覆いかぶさってくる気がして息が詰まり、痛くて仕方がない。 地続きの生において、わたしは実践のなかから実感を得たい。自分のこと、他者とのかかわりをより深く知りたい。そして、その先に抽出されたもので構成された磁場に共感してくれるような人たちと一緒に生きてゆきたい。これまで「私が何かを作ったところで誰が需要する?」と思ってなにも手につけられていなかったけれど、結局のところ自分の生き場所を確保し、荒波にあらがい、同類の人々と寄り集まるという、自分の生存戦略が制作という手法なんだろう。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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