茶太郎がさっき死んだ。 茶太郎は、おとといからわたしの住むシェアハウスで保護していた雀のことだ。同居人が拾ってきた。 はじめから、巣立ったばかりの雛ではなさそうなのに飛ぶのが下手で、おかしいなあと思っていた。でも首の後ろの青黒い膨れに気づいたのは今日の朝になってから。きっと血だまりだろう。昨日すこし回復していたように見えたのに、今日になって一気に衰弱してしまった。 言い方がちょっと適切でないかもしれない。でも、生き物が息をひきとる瞬間を目撃したのは、祖母以来、2番目だった。 茶太郎は最期の10分、痙攣しながらも必死に息をしていて、体全体が小刻みに上下していた。しかし最後に一回大きく痙攣して、みるみるうちにただのモノになっていった。 生き死にの境目って薄いなあ、とわたしは思った。 茶太郎を見取っているときに思い出したのが、山田詠美さんの「ひよこの眼」。この物語は、親に人生そして生命までも翻弄された子供の諦めをその恋人だった主人公の目線から静かに描いたものだ。国語の教科書に載っていたので、あまりの共感出来なさと読了感の悪さにモゾモゾする思いをかかえた同世代の人も多いのではと想像する。 主人公が両思いになる男の子は転校生で、どこか諦めた目をしていた。彼は親の無理心中の道連れにされてしまう。それを知った時に、主人公は自分が昔死なせてしまったひよこの、自分の死を予期しているかのように澄んだ瞳を思い出す。 遠くを見ていた臨終間際の茶太郎の目も、澄み切っていて綺麗だった。 わたしは、茶太郎が衰弱し出してから、彼(なのか彼女なのか、結局わからなかった)を気にしながらも料理をしていた。 今日の午前中すごく新鮮で美味しそうに見えたハタハタを買ってきていた。魚の頭の落としワタを出しながら、その一方で茶太郎のくちばしを無理やりこじ開け、ふやかしたポンガシを食べさせた。 命を生かす手立てをしながら、命をいただく準備をする。それを両手に抱えて、ただただ不思議だった。自分の行動に不整合性を感じて仕方がなかった。自分が同じくらい小さな生き物にしている扱いの差。そこには食べるものと、食べないものの差しかない。日本はスズメも食べる文化圏。茶太郎だって食べてしまおうと思えば、首の骨を折って羽を湯引きしてこんがりと焼き鳥にすることだってできたわけで。魚を美味しそうと思い、料理するわたし。一方でスズメを愛しいと思い、つぶさないように手で固定して餌をやるわたし。人間の理性の部分で固められたその境界線をこんなに色濃く感じたことは今までなかった。 茶太郎のことは、彼もしくは彼女を拾ってきた同居人と一緒に看取った。首の後ろの血だまりに神経を圧迫されていたのだとわたしは推測している。湯たんぽにのせたタオルの中で、体をまっすぐ保てなくなり、足に力を入れられなくなり、痙攣がはじまり、体がのけぞり始め、羽はだらんと開き、そして徐々に体全体の力が抜けていく、そういう死に様だった。 3日間だけしか一緒にいられなかったこのスズメを、スズメと呼ばずに茶太郎と名づけてしまった同居人は、その後飲みに行く約束があり、こころで泣きながら献杯を捧げたそうだ。 もはや自分達の人生にふらりと迷い込んだ野生のスズメの死に大粒の涙を流すほど純朴ではないけれど、3日を共有した皆の顔はやはり寂しげだった。 少なくとも自然界で放置されるより長生きできてよかったよね、と思うのは、人間のエゴでしかない。茶太郎にとっては、人間が自分をジロジロみて触りまわって口に食べ物を突っ込まれてこわかったかもしれない。でも、わたしは茶太郎のために良いことをした、と思うことにする、自分のために。 さっき、木の下に茶太郎を埋めてきた。4人も参列した立派な葬列だった。 今夜は特に特徴のない夜。美しい月でも出ていたら、もう少しこの感傷をきれいなものとして酔えたかもしれないのに。 合掌。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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