外国人の友人が、会社に行くのが辛い、という。外国人であることが原因で、彼女は辛い思いをしている。
これはいわゆる高度人材の話だ。 彼女は自国の日本語専攻で4年間学び、その間には1年間日本に留学をし、その後日本の大学院に進学して修士号をとった。そして、就職活動をして、日本で会社に就職した。 そして今、彼女は「自分は、会社をインターナショナルに見せるために雇われているお飾りにすぎない」という気持ちを抱えて仕事をしている。 「自分はこんなことをするためにこの会社に入ったんじゃない」という気持ちは、きっと世界中の被雇用者が感じうることだろう。自分が希望することでなくても、それは誰かが行わなくてはならない。会社という人の集合体で、全ての人が希望する仕事ができるわけがない。 しかし、外国人だからといって、他の同期生がやらせてもらえることを自分だけさせてもらえない、なんてことがあったら、それは不満だし悲しいことにちがいない。信頼されていない、外国人だからと意識されてしまい仕事を任せてもらえない、その思いは、自分の精神に牙を向くかもしれないくらい辛いものだと想像できる。 わたしの友人の場合、もともと大好きだったファッションに関わりたい・自分の出自を生かして働きたいと、国際的にも展開している衣料品関連の会社を選んだ。しかし現状日本国内向けの書類作りばかりやっているという。 入社すぐの若者がやりたい事業を引き継いだり立ち上げたりできるわけがない。それはわかっていても、「サービス残業でその日のレポートを仕上げていると、どうして努力した結果こんな単調な仕事をしているんだろうって、泣きそうになる」と彼女は言っていた。 日本企業では職務が明確ではないことが多い。それを当然としていない外国人被雇用者は、不満を覚える。様々な勤務地で様々な職務を経験させ、ジェネラリストを要請するようなシステムには、会議を通した協力体制の元で幅広い業務範囲に対応できるというメリットも勿論あるだろう。しかし実際周りの外国人や若手の社会人から聞こえて来る声には不満も多い。 そもそも「総合職・一般職」という名称は当たり前に受け入れられているが、何をしているのかよく分からない。私はごく普通の日本の家庭でそだった日本人だが、就職活動時期に差し掛かった同級生がさも当たり前のようにこれらの語彙を連呼するのが理解できなかった。曖昧な名称を職種としているのは、お互いを補完し、流動的に働けるようにするためかもしれない。しかしそれが文化を異にする地域からきた人をがんがらじめにして辛いと感じさせるなら、それは今後のスタンダードとなってはいけない。 今後日本において外国人人口は増加する一方だろう。はたして、日本はどうやったら異文化を背景とする人々に対して「風通しの良い社会」になるのだろうか。 まず「日本人」「それ以外」というラベルと、そのラベルに無条件に期待してしまうことに意識的になると、何かが見えるのかもしれない。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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