先日、大学の先生のご縁で、とある高校にて「海外に目を向ける意義」についてお話させていただく機会があった。
とにかく自己肯定感が低いので、幾つになっても「わたしなどでは不相応では」と感じてしまう習慣から抜けきれないものの、海外を旅して自分が大きく変わったという自覚はあるし、年齢の近い人間の等身大の意見を伝えることも大事だと考えたので勇気を振り絞って行ってきた。 その高校は、「スーパーグローバルハイスクール」(SGH、正直この名称はたじろいでしまうような響きだ。)という、国際的に活躍できる人材育成のための文科省のプログラムに、ダークホース的に選ばれた。SGH指定は全国で国立7校,公立31校,私立18校しかないしほとんどが進学校といわれるところ。 私の伺った学校は、様々なものにかなりアクセスしにくいところにある。だからこそ生徒に多様な世界を見せたいと、10年間コツコツと実績を積み上げてきたからの指定だ、と伺った。 どうして私が呼ばれたかというと、その高校の修学旅行先が海外なのだけれど、なにせ田舎に位置する公立学校、消極的な生徒たちもままいるということで、海外に行くことの素晴らしさを伝えてほしいとのことだった。 わたしは今でこそ日本人にしてはかなりチャランポランな生き方をしていますが、もともとなんの海外の風にあたることもなく、日本人として生まれ、日本人として、そこそこまっとうな (まっとうすぎるような) 家庭で育った。わたしが初めて海外に出かけたのは、高校二年生。それまで飛行機に乗ったこともなく、本だけを気のおけない友としていた内気かつ頑固な子供だった。 急に成績至上主義から解き放たれ、個性を発揮することを求められるようになった大学時代の始まりにたまらず放浪旅を始めたのは、大学という場所が、疑問は抱いても自分の頭をつかって物事を解決したことがない世間知らずには辛いものだったからだ。大学に滑り込めたわたしを見て安堵した周りの声に反して、自分は満たされない思いでいっぱいだった。そんな1年生の夏休みに衝動的に一人旅を初め、それももう遥か昔のことになった。 それぞれの目的地へ発った後でも、残り香で心に温度を感じるような、それはそれは魅力的な異国の友人たちとの出会い。絶対的な排他性と寛容性を併せ持つ自然。人の肌の色や意識や言語を、その薄く深い存在で分かつ国境。 生きづらければ生きる環境を変えればいいこと、無償の親切はそこらじゅうにあるということ、誠実さは言葉を超えるということ、隣人ですら異文化であるということ、人間の本性は普遍的であるということ。 知識として知っていた場所や言語や思想が、現実のものとして目の前に立ち現れる静かな衝撃。自分の嗅覚を信頼し、人の好意に身を委ねてみる快感。 夜泣きながら自分をひしと抱きしめて眠る子供を見ながら感じる虚無感、生活を向上させたい時に他人から奪うことしか思いつかない人を生む環境への怒り、直射日光の下で水源が確保できない不安。様々な未知の病原菌に晒される身体を通じて死を考える恐怖。 様々な経験をし、様々な感覚が身体と精神を通り抜けていった。 それらを通じて、旅はわたしを劇的に変えた。 今生きている、そしてこれからも生きて行くということに疑問や恥じらい・ためらいがなくなり、生き抜くことへの覚悟ができたことが一番大きかっただろうか。そして、人間そんなに悪いものでもない、できるならば善い人でありたいと願うようになった。 また、自分の足を運び、自分の目でみて自分の頭で考え、そしてまた自分の足で動く、その大切さを学んだ。今後の生き方として、情報の濁流の中でどうやって情報を取捨選択していくのか、そこに生き抜く機知となるものが見え隠れしているとわたしは思う。 自分の見たいものだけ見るか、そうではないか。 どんなメディアにも、誰かがアップしようと思ったことしか載っていない。真に重要な情報は、情報の流れに身を任せてたどり着いた先にはないのかもしれない。経験の集積を思考の中で因数分解し、一滴の普遍性を抽出することで、自分にとって本当に大切なものは何かを理解し、事象を判断していけるといいと思う。 今回の講義の中で、わたしは別に、「外国に行くことは最高やで、君も絶対すべきやで」と主張したかった訳じゃない。 自分はこれをしている時が絶対的に幸せだと確信している物事があるのなら、それを極めればいい。それってとても素晴らしいことだと思うし、年若くしてそこまで到達している人がいるなら、むしろ大変に羨ましい。 しかしそんな人はとっても稀少じゃないだろうか。個々人の人生はそれぞれ薄靄の中を進んでいくようなものだ。そこに予期せぬ揺らぎを持たらし、ちらりとでも晴れ間を見せてくれるのが、未知の場所への旅じゃないかとわたしは思う。 灼熱の中越えた峠には、鴇色の夕日と地平線には、躍動する小さな生の数々には、何十冊書物を読んでもたどり着けない感動、そして実感がある。日本の端っこの高校生にも、わたしの脳裏に鮮烈に焼き付いているこの感覚を味わってもらいたかった。 「自分の目でみて考えて判断するのは大事だよ、海外に行くのはそれに気づくいい機会だよ」ということが言いたかったことだ。『グローバル人材』というバズワードを肯定する目的だったのではない。そもそも私は、文科省が求めているグローバル人材ではない。 わたしは、今反省しきりなくらいに言葉足らずで、どれくらい高校生に伝わったのかわからない。しかし言葉の片鱗でも、わたしの纏う雰囲気でも、見せた写真の一部でも、気づかぬ間に記憶に忍び込んでいて、いつかふいに実感として蘇ってくれたりしたら自分のしたことにも価値があるのかな、なんてぼんやり考えている。 高校生に、話の最後にこんな引用のスライドを見せました。 "The secret of happiness is to see all the marvels of the world, and never forget the drops of oil in the spoon." (---Paulo Coelho's ‘The Alchemist’) 全体を見ながら、世界を眺めながら舵取りをしつつも、手元に自分が持っているものを無下にしない。説明はしたけれど、伝わっただろうか...。 生きるって大変だけれども、つまるところ、どこで何をしていても、みんな幸せに生きられたらいい。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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