自分の文体を硬いままにしておくべきか、noteやCakesの中央値のような読みやすさを目指すか、考えている。
近代文学を多感な時期に読みすぎたかもしれない。友人たちによると、そもそも会話の中の語彙も古い、らしい。ただ、それがいけないことだとは思わないし、なにしろ、書いていて楽なのだ。 広く届く文章を書くには、中学生にもわかるように書くとちょうどいい、などと聞いたことがある。 結局のところ、どういう興味のどういう層に届けたいか、によるのだろう。だから何か頼まれて書き物をするとき、大学・大学院での書き物をするときにはその場にふさわしい書き方を心がける。対面でコミュニケーションをとる場合の作法と同じだ。だけど、好き勝手つづっているブログとなると、そのあたりに意識的になりきれない。 ひとつ思いつく改善方法として、文体が心地いいと思う書き手の文章にひたってみる、というものがある。 もともと語彙が肩肘張っているのは、近代文学の読みすぎかと思う、と上に書いた。もしくは、単に性格が偏屈なのだと思う。 それに、実は英語の翻訳をすることがよくあるのだけれど、英→日翻訳の時に読んだ文章にクセがあったら、そのクセを自分の文体に取り入れてしまって、それがそのまま次に行う日→英翻訳のときに出てしまうことがある。 ちなみにこのブログ記事はnoteでデザイン・企画系の人たちの記事を、リンクが上がってくるままに辿って行って、10本ほど読んでから書いている。いつもよりは熟語が減っているのではないか、というのが自分自身での印象だ。 次は俵万智氏、もしくは森見登美彦氏の本でも読んでみて、その文体が乗り移ってくれるのか実験してみようか。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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