「批判的によむこと、考えること」について、思うことが多々ある。
批判的によめ、といきなり言われても、こまる。そんな方法、教えてもらった覚えはない。それに、わたしは文章の構成要素の一粒一粒を愛でることしか知らない。これまで、それで幸せだったから。 本をよく読む子供ではあった。しかし、本は脳裏に広がる劇場の入り口で、文章を読み始めると上映が始まり、その映像に夢中になっていた、というのがわたしの経験の正確な記述である。 一方、一定の立場を説得的に強調する読み物はむしろ押し付けがましいと感じて、避けていた。センター試験の評論問題が嫌いだった。「なにを偉そうに」、とずっと思っていた。高校三年生のときに、柄谷行人*を読まされて呻いていたのはいまでも覚えている。評論の観念的な言葉を多様する表現も、自分の中で具象をともなった映像にできないから、つまらなく感じていた。ただどんよりとした、彩度の低い迷彩柄が視界に広がる体験よりも、美しい言葉で紡がれた誰かの記憶を追体験するほうを選んだ。 とにかく、読む物をかたっ端から印象論でとらえてしまって感情に響くわけで、そこに夢中になっていたら感情抜きにした論理的思考を育てる余地がなかった。 ついでに言うと、(かつ他人のせいにしていいのであれば、)幼少期にずっと「口答えをするな」と言われていた記憶がある。自分の性格を鑑みるとわたしが口答えをしすぎていた可能性は過分に大きいが、納得するまで疑問を展開するのに付き合ってくれる大人が周りにいたら違ったのかもしれない。が、世の中そんなに甘くはない。そのころは知らなかった。「でも、それ違うでしょ、むしろこうでしょ」という応酬を学問と呼ぶなんて。本質主義批判の批判がなんとかかんとか。頭が痛い。 というわけで、自分の意見・立場を体系立てた理由とともに明確にすることができない人間に育ってしまって今に至る。 「話を『んーーー…』といったっきり流している」だの、「投げたボールがかえってこない」だの何度も言われた覚えがある。学術書、新書などに対して、この本どうだった?と言われても答えられない。 別に、回答を求められている最中に上の空で夜ご飯のことを考えていたりする訳ではない。「へーーー!!、という感覚の連続でした」というのがわたしの全感想なのである。 本心をそのまま言ったら怒られるかな、怒られはしなくともこいつダメだと思われるだろうな、と考え始めたらますますなにも口にできない。困ったように笑うばかりである。しまいには「え、読んだんだよね?」と確認をされる。 そんな思考回路の足腰よわよわなままで、こんな議論の戦場みたいなところにやってきたものだから、なかなかメンタルに響く秋学期であった。 近しいひとたちには、去年末ごろから理論が理解できない、と嘆き喚いていた。はたして、自分の母語で勉強していたら少しは違っていたんだろうか。(おそらくないだろう。) 事実、や真理とかがないのもつらい。正解を求める癖が着いてしまった元成績優良児は、だいたいの手触りがわかったところで「じゃあわたしはこの人の言ってることと、この人の言ってることを使って、こう定義しよう」と自分で決めるところで立ちすくむ。 社会科学とかリベラルアーツとか哲学ってやつは、自然科学の基準でははかれないものを、いろんな人の視点からみることで大体のかたちを把握するんだと、現状思っている。人間臭さのない基準があらかじめ目の前にあるんだったら考えなくていいのに。思考歴3年くらいのわたしの頭がぼやく。 また、社会科学をやっていると、なまじなんでも批判的に考える癖がついて、どんどん主観的で偏屈になっているような気分になっていった。ちなみに批判的 (*クリティカルに)と批難とは違う。しかしもっといい日本語の訳語は生まれないのだろうか。また、もっとわかりやすくその態度を学術界の外に伝えたらもうちょっと分かり合えるだろうに。 とにかく、もともと偏屈なのにこれ以上人格が破壊されたら皆と同じように世界を知覚することにどれくらいのエネルギーを費やすことになるのか、と戦々恐々として日々を過ごした。 これに輪をかけるように、この分野は苦手だという「心理的スキーマ」に支配されているから、ますます考えられないし、記憶に残らない。文字情報を脳に入力する...解読に時間がかかる...エラー、エラー、エラー。そしてタイムアウト。 前期末は本当に地獄をみた2週間だった。パトラッシュ、もう疲れたよ…眠いんだ...っていっても、待ってるのが天国じゃなくて地獄だからやるしかない。もうなにをどうやったかの記憶があまりない。あの時、多分何かが憑いていたんだと思う。上滑りを打開すべく落ち着いて入門書に立ち戻ったのが期末後である。 この頃になって、理論はフレームワークだから、ふにゃふにゃで角度によっていろんな色に変化する複雑な物を、色違いの眼鏡をかけてみたり、計測単位の違う測りに乗せてやったり、四角や丸やあるいは雲形の枠にいれて、てざわりを確かめようとする試みなのだと理解するようになった。 物事を理解するチャネルが少し増えた気がして嬉しい。突貫工事だからすぐ水漏れはするだろうけれども。そんなことを考えているとふと、数学などを一生懸命やって、ふと街の景色を見た時にある形や音や光がポッと数式となって頭に現れて、ああ、美しい...って愛でられるくらいになったら、とても幸せだろうな、と思う。そういうチャネルを持っているひとにだけ見える世界がある。 日本に戻った時に、もう一度柄谷行人を手にとって見ようかと思う。もしまた読んでみてそれでも嫌いだったら、語り口が嫌い、とか水村美苗*に言い寄って岩井克人*を怒らせたらしいから、という理由以外に、彼の主張のなにがどう矛盾しているあるいは自分の考えと整合していないから読んでいて面白くない、と言えるようになっていたい。 *柄谷行人: 評論家。センター試験評論問題の本試験や模試で数回見かけた。なにが書いてあったかほとんど覚えていないけれども、いまだになぜか好かない。 *水村美苗: 主観的にみて、とても素晴らしい作家。寡作ながら出版された本は知っている限りすべて賞をとっているのでわたしだけの感覚ではない。 *岩井克人: 経済学者。水村美苗の夫。水村美苗の作品中に「殿」として出てくる。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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