今年末に2人展をすることになった。
世代の違う女性作家2人でギャラリーを借り、セクシャリティや身体性に関する展示をする。 私は、その展示のためにサイアノタイプという、青色の日光写真に取り組んでいる。これは1842 年、"photograph"という語の創案者であるハーシェル(John Hersche )により考案された、鉄化合物を用いた写真印画技術だ。 これまで散々デジタルカラー写真ばかり撮ってきたところからすると、かなり異質でむずかしい。 写真作家と呼ばれる人々の中には、手焼きモノクロで制作をする人が数多くいる。それはそれは美しい作品を作り上げるのだけれど、「なんでわざわざ白黒?」と不思議に思うこともあった。そしてその感覚は、モノクロームでアナログな制作をしよう、と決めた自分にも襲いかかってくる。 写真家と作品を観察していると「あえてそれっぽくしている」人もいなくはない。コントラストを強くした白黒写真というのは、それだけでカッコよく見える。それに、これまで写真に技術革新を起こしてきた "巨匠" と呼ばれる写真家たちの白黒写真を見ていると、その雰囲気に憧れて自分も追随したいと思ってしまうものだ。写真の正統性みたいなものを、伝統的手法という文脈を付随させることによって作り出すこともあるだろう。 もちろん深みのある写真を撮る人は、用いるメディアについても十二分に自覚的なのであって、他者へのミーハー心だけでモノクロ一辺倒なわけがない。だからモノクロ写真を撮る人に知り合うとよく「なんでモノクロやってるんですか?」と質問責めにしてしまう。 答えは人によって様々だった。「なんでって....好きだから?」「手に取ったカメラとの相性かな」「うーん、師匠がやってたから」「暗室にこもるのが好きなんだよね」「その時の空気を閉じ込めやすいと思うから」「ものの形に興味があるから」。 写真家には寡黙な人、言葉にするのが得意でない人も多くて、まだうまく「写真家の言語」を話せない私には、各人の動機を実感として理解するのはむずかしい。でもやっぱりモノクロ制作された写真に比較して同じ写真をカラーで見ると「なんかやっぱり違うな...」と思うことは多くて、モノクロで鑑賞者の前に出される写真はモノクロであるべき写真なのだと思う。 そしてモノクロ写真作家はフィルムを使う人が大半だ。撮影段階であえてフィルムを使うには、フィルム撮影独特の絵柄を得るため、限られたフィルム枚数で決め打ちしなければならない緊張感、レトロなカメラだから被写体が油断しやすいこと、電気がなくても撮影できること、それぞれの写真家ごとに様々な理由がある。そしてフィルムを手焼きする人にモノクロ愛好者が多いのは、美しいグレーのコントラスト、印画紙の好み、往々にしてカラー手焼きの技術が複雑すぎて家で作業しにくいからだったりする。 私が感知していないモノクロ撮影の理由はまだまだあると思うが、少なくとも「なんとなくそっちの方がかっこいいから」だけでは良い写真は作れない、というのは確かなようだ。 私自身は、今回写真というメディアの本質を自分なりに理解したいという思いがあった。気がつけば周りにデジタルカメラやスマートフォンが存在していた世代だ。当たり前のように手にとって当たり前のように膨大な写真や動画を保存してしまう。いったんそこから離れて、何をどうして切り残したいのか、考えながら写真を制作したいと思った。 もう一つは、情報の取捨選択にフォーカスをして技術を上達させたいというねらいがある。私が世界に対峙するとき、目にする情報をどれも同列にありったけ取り込んでしまうという認識傾向がある。それゆえ圧倒的な情報量に、処理・理解が追いつかないということがよく起こる。だから作品制作をしようとおもっても、「まとめる」ということが苦手で仕方がなかった。この状況でどの情報が優先して主張されるべきか、という判別をつけられなかったのだ。 だから写真を見てもらっても「雑多でまとまりきっていない」「要素を捨てるのが下手だ」「一枚一枚は良いのかもしれないけど、ひと繋がりの作品としては弱い」などのフィードバックをもらうことが多かった。 色彩という情報を削ぎ落とした中でどのような物語が浮き立つのか。自分は何を語ることができるのか、作りながら考えてみたかった。あとは、洗練された構図も習得したい。それには、対象の輪郭や陰影が浮き立つモノクロ写真の方が都合がいい。 気を付けたいのは、色に甘えないようにするということだ。とても美しい藍色の写真が出来上がるから、ついついその色合いの美しさに夢中になって内容の充実度に目を向けるのすら忘れてしまう。そもそも自分にとって新しい技術を探求しているのでそれだけに集中してもいいのだけれど、一生サイアノタイプ縛りの作家になりたいわけではなく、自分の存在意義はあくまで視点にあると思っているから、それをうまく表出するためのメディアだと捉えての制作だと意識しておきたい。 いつもと違う写真メディアでの制作を通じて、視野を耕している感覚がある。そのスコープがしっかり磨かれると、世界を眺めるのがいっそう面白くなるのだろう。そう期待して、ゆっくり手を動かしつづける。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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