かけがえのない人間関係、生き方と働き方、社会に対する向き合い方、それら全てが変質した20代のおわり。わたしは予期せず、何の義務も伴わない浮遊した時間をたっぷり手の内にすることになった。そこでいったん幽居し、今までの記憶をもう一度舌の上に載せてころがし、新しい解釈を取り付けようとこころみた。いうならば、旅を旅するような時間を過ごした。
思えば昔から、一枚めくったところにある自分を晒すということにおっくうさと一抹の恐怖を感じていた。それをする意味をなんら感じておらず、いつも自分の夢想する世界に浸っていた。そこに説明を与えるとすれば、ひとつは周りの言動から自分の義務やふるまいの正解を小器用に読み取り、既製の仕組みの中で輝くという、いわゆる優等生的な成功体験あるいは生存戦略を幼少期に覚えたことだ。さらに、目の前にある環境に自分なりの意味を見出しそれなりに何でも楽しめてしまうというお気楽な可塑性が、自分の中に同居していることにも由来する。 20代は探索の時期だった。好奇心と直感が熟慮をすっとばして掴み取ってくる出来事をこれでもかとカレンダーに詰め込んだ、自分の内から湧き出てくるものを人前に置く余地がないくらいに。わたしは内面をエピソードで埋め尽くした幅広い事情通で、何らかの ”視点” にはなり得なかった。どれだけ様々な国を放浪したとて、人類学を体系的に学んでみたってそれは同じだった。 わたしは世界にあふれる多種多様なかたちと色が好きだ。自分の手でものづくりをするのも昔から好きだった。カメラを通じて縁取る情景の中に構図や色の対比・美しさを見出すと、それだけで生きている意味が成立すると思う。また、あえておおげさなことばで切り分けられることのない、ふとした時の人の営みやふるまいに内在する愉快さにも、同じような心地よさを感じる。それらを他人に見せることについても、なんの意義も感じていなかった。 “自粛” をすることが正常とされる世界線で京都に定住し、内省の時間を経た。自分をがんじがらめにしていたものごとを手にとって多角的に眺め、そこに湧き出る感情に言葉を取り付けた。 自分の思考や嗜好・指向の輪郭が立ち現れてきた時、はじめて自分の磁場を作りたいと思った。自分を投げた先に他者がいる世界を見据えたいと思えた。その結実が、この写真展示だ。 5万枚の写真から、右往左往しながら抽出した写真を額装し改めて眺めてみると、なんてシャイな写真ばかり集めたんだろうとちょっと笑ってしまった。だけど、今のわたしは、それを「面白いね」と言ってくれる人たちと仲良くなりたい。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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