そういえば、自分から始めたことって写真くらいだな、と最近思う。
よくも悪くも素直で好かれたがりの子供で、周りの大人が良かれと思って進める道ばかりとってきたから、自分にしっくりこないことまでそれなりに出来るが、それなり以上にならない器用貧乏に育ってしまった。そんな中で、自分から手に取って、今でも続いているのは写真くらいだ。 そもそも写真を続けられているのは、写真が人生の絶望感を薄めてくれたからだった。 もともと学校みたいな管理される場所に馴染めなくて、「自分がダメな人間だからこの場に合わせられないんだ」と縮こまっているばかりだった。 だから、人間なんて嫌いだったし人間をやめたかった。ホヤくらいになって漂っていたいと思っていた(ホヤ可愛いし)。 写真を始めたのは、たまたま見つけた結婚式場のアルバイトだったけど、それから自分でもカメラを買って、どこに行くにも持って歩いた。旅にもカメラを携えて行った。そんな中で、自分が撮る写真が人々の生活のふとした瞬間を切り取ったものばかりだという事に気づいて、案外人間好きなんだと思い直した。 意識の奥深くにある、まだ言葉になっていないもの。写真はそういう分かりにくいものを掬いとって、貯蔵しておいてくれる。景色と共に保存される、当時の自分の視点。これを後から見返すことでどれだけ助かったか。 記憶は、思考の癖によって改変される。そして本人はそれを自覚できない。だから時々、自分の立っていた場所がわからなくなってしまう。 自分の経験がゆるがない景色として写真に残っているということは、感情に覆われた記憶から一歩外れたところから経験を省みる機会を与えてくれる。これが自分にとって大切なことだから、カメラを手放せない。 もちろんカメラがあることによって初めて可能になる他者とのコミュニケーション、初めて獲得することができる視点、いろいろな理由が他にもある。 だけどこんなに写真という行為とメディアに対して信頼感を寄せていられるのは、写真があったから暗闇から抜け出せた、そういう実感があるから、そう言い切ることができる。
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Hrk writes. 両極端の、どちらも自分 Archives
November 2021
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